城山三郎と捕虜収容所3

3.戦時中の捕虜収容所の概要
 (1)全国に捕虜収容所設置
太平洋戦争中、俘虜(捕虜)収容所が日本全国に設営され、1945年8月15日当時32418人が収容されていた。
-------------------------------------------------------
日本に抑留されていた連合軍捕虜 *(2)
         (海外も含む) 
アメリカ人    17518人
オーストラリア人 11766人
カナダ人      1462人
オランダ人 32632人
イギリス人 39708人
そ の 他 6706人
合  計 109792人
--------------------------------------------------------
当時、捕虜に対する私的制裁が頻繁に行われた。連合国からの抗議を受けて、濱田平俘虜管理部長は「私的制裁は個人的怨恨は殆どなく、真に俘虜の非行を矯正する為また正当防衛もしくは言語不通等から侮辱或いは反抗されたものと誤解して制裁を加えた者が多く、中には一俘虜が他の多くの俘虜から嫌悪されて、却ってその制裁方を依頼されたこともあった。*(3)」と答えている。
 1943年12月に濱田は収容所長会議で「私的制裁は日本軍隊の伝統的悪習であるだけでなく、国民的欠陥であって、一般に日本人は性極めて短気で、些細な事にも激昂し、殊に言語の不通、習慣の相違等から摩擦が生じた場合、善悪理非を考へ、合法的手段をとる事はなく感情の激するままに私的制裁を加える場合が多かった。*(4)」と語っている。
 米軍による空襲が激しくなった1945年になると国民生活が窮乏し敵愾心に拍車をかけ、「一方で捕虜に対する感情は極端に悪化し、公正な俘虜取扱に懸念している俘虜収容所職員を非国民であると非難し、或いはその職務を妨害し、遂には俘虜に対して軽傷ながら傷害を加えた事件が生じた。*(5)」こともある。例えば、大阪では就労先から帰所する捕虜の背後から小刀で刺突したとか、職員が捕虜優遇に過ぎると殴打されるという事件が起こっている。函館、仙台、東京、名古屋、大阪、広島、福岡の7地区81分所(3分遣所)に俘虜収容所が設置された。国内の俘虜収容所については、「POW研究会」の調査結果が公開されている。

(2)名古屋俘虜収容所(鳴海分所)
1943年12月、大阪俘虜収容所第11分所として愛知郡鳴海町有松裏(現・名古屋市緑区鳴海町有松裏)に開設され、1945年4月に名古屋俘虜収容所第2分所(鳴海分所)と改められ、終戦時には273人が収容されていた。収容人員の国別の内訳は、アメリカ 189人、イギリス 64人、カナダ 11人、ポルトガル・オランダ各2人、その他5人。使役企業は日本車輌名古屋工場で捕虜は熱田区三本松町の工場へ電車で通勤し、鉄道車両の製造作業に従事していた。
収容所写真4.jpg
戦後、米軍機が撮影した鳴海分所 *(6)

戦後、8月29日から9月4日にかけてB29や艦載機で救援物資のパラシュート投下が鳴海分所にも行われたことを住民が目撃している。
この収容所で死亡した捕虜は22人(アメリカ人4人、イギリス人16人、カナダ人2人)で死因の殆どは脚気とか大腸炎であった。そして、イギリス・カナダ人の18名は横浜市保土ケ谷区にある英連邦戦没者墓地に眠っている。そして、鳴海分所では、B・C級戦犯として捕虜虐待及び致死寄与などで23人の日本兵・軍属が有罪判決を受けている。国内の収容所の中では多い方である。
嘱託医として診療にあたっていた棚橋龍三氏は、医薬品不足もあって窮余の策としてお灸などの療法で治療していたが捕虜虐待の疑いで横浜の軍事裁判に呼び出された。捕虜の中にいた軍医が「東洋医学の治療法」と証言してくれて無罪釈放となったというエピソードが残っている。

注(2)竹前栄治/中村隆英 監修『GHQ日本 占領史16』(日本図書センター、1996年)
注(3)茶園義男/編・解説『俘虜情報局・俘 虜取扱の記録』(不二出版、1992年)
注(4)内海愛子『日本軍の捕虜政策』(青木 書店、2005年)
注(5)前述『俘虜情報局・俘虜取扱の記録』
注(6)1945年9月4日撮影。米公文書館所蔵。市民団体POW研究会提供。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント