『わたしはこう読んだ《橋のない川》』について

沢田さんとは1970年に山科の新聞販売店で半年ほど一緒に働きました。それから50年、「山科会」と名付けたグループの一員として長い付き合いをしてきました。
『わたしはこう読んだ《橋のない川》』を一読した時は、ちょっとガッカリしました。ほとんどが引用という書き方にです。「サワダオサムはこう読んだ」ということに期待感があったからです。沢田さんは、私にとってはいろんな意味の先達といった存在です。特に、読書については『壁』の《日々是好日》で沢田さんが読んでいる本を参考にして読んでいます。最近では、『空と湖水』植松三十里がその一冊です。「刊行を祝う会」の前に大津の三橋節子美術館にも行ってきました。
そんな沢田さんが『橋のない川』をどう読んだのかに興味があったのです。『橋のない川』は、私も大学生の時に読み、部落問題研究会にも所属していたので読書会などもしていたし、中学校の社会科教師になってからも近代史は『橋のない川』をベースにしていたほどでした。それほど『橋のない川』には、何らかの自負もあったので、沢田さんの読み方に注目していたのです。
しかし、「刊行を祝う会」当日に沢田さんの「なぜこのような書き方をしたか」を読んだり、参集した皆さんの発言を聞いてなんとなく納得して、今、再読しています。
『新修部落問題辞典』による「大塩平八郎の乱」には「ふだんの大塩の言動から考えて、部落の人々の解放への意欲を、反乱に利用しようとしたものと推定されている」と書かれていますが、沢田さんは、「《大塩の乱》と《米騒動》は本質的に同じではないか。どちらも部落民が参加し、積極的な役割を果たした。そのことが大事なのではないか」(59ページ)と書いています。私は、こういう読み方をたくさん読みたいと思っていたのです。
大塩平八郎は役職として部落の人々を動員する立場にあったので他の武士に比べて差別の実態を知っていたと思います。部落の人々の解放への意欲の強さも感じていたでしょう。だからこそ「反乱に利用しよう」と考えたのかもしれません。もし、大塩の乱が成功していたら《利用》だったのか、《第一歩》だったのかが明らかになっていたでしょう。
大塩平八郎に時代的な制約や限界があることは仕方のないことです。それでも、大塩の乱の後の渋染一揆や幕末の長州藩における維新団・一新隊などの活躍を経て、明治になり大江卓の「解放令」とつながっていったのです。それでも、一片の書類で解放されるわけでもなく『橋のない川』が書かれた訳です。
最期に、沢田さんの次回作「三好十郎」を心待ちにしていることを記して、沢田さんに私の先達として書き続けることを願っておきます。

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