テーマ:桶狭間の戦い

濃尾参州記ツアー4(桶狭間古戦場)

1日目の最後は、桶狭間古戦場に寄ることになった。 マイクロバスが名四国道の有松ICを出た時には、緑区の古戦場公園に 行くものだと思ったが、濃尾参州記で司馬さんが立ち寄った高徳院に向 かった。高徳院には今川義元本陣跡の石碑がある。 そして、高徳院の東側にある「史跡古戦場」に行った。昭和12年に文部 省によって伝説史蹟と認定さ…
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信長の道を歩く

今日は、地域の「九条の会」で健康ウォークと題して桶狭間の戦いの 史跡めぐり(その2)をした。一昨年に大高城や鳴海城を歩いた続編 である。 正午過ぎに中島砦を出た信長軍2000人が釜ケ谷に到着した頃、豪 雨に遭う。そして、雨がおさまったところで坂を駈け上り、おけはざま山 で休憩していた今川義元を攻撃する。 桜花大学の構内に…
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信長の坂

桜花学園大学の敷地内に最近、桶狭間の戦いに関連する 石碑が建ったというので写真を撮ってきた。 石碑には、次のように書かれている。 「永禄三年五月十九日(西暦1560年6月22日)午後一時頃、 この辺りの山麓で激しい雷雨が止むのを待っていた織田信長隊 は、この坂をいっきに駆け上がり今川義元の本陣に突入したと伝 えられていま…
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有松絞りまつり

6月の第一土・日は恒例の「有松絞りまつり」で、昨日も 旧東海道は人混みでごった返していた。 山車会館の前には、山車が展示され、からくり人形も時間帯 で公開されていた。山車会館では、地元の歴史研究をしてい る人たちが「一人芝居」で桶狭間の戦いを演じていた。
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桶狭間古戦場祭

6月5日~6日は、もうひとつの「桶狭間古戦場祭」があった。 今川義元の本陣跡といわれる高徳院の前の道路を交通遮断 して、豊明太鼓、路上の民舞、武者行列が行われた。 8月に名古屋で開催される「日本ど真ん中まつり」の常連である 鳴海商工会は、最初の教え子が中心になっている。 武者行列は、マーチバンドを先頭に、警護隊(鉄…
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桶狭間古戦場まつり

「桶狭間の戦い」から450周年ということで、今日は名古屋市緑区で 「桶狭間まつり」が行われた。写真は、昨日行われた有松駅前の藍 流祭の一場面である。 今日は、史跡公園で織田信長像と今川義元像の除幕式が開催された。 大変な人だかりで、自宅から史跡公園まで裏道を通って行こうとしたら 史跡めぐりの人たちの長蛇の列に遭遇し…
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有松絞り

有松駅付近の旧東海道沿いに「ありまつ公園」ができた。 入口に有松絞りを現した石柱があった。 公園内には東海道五十三次の宿場町の絵がレリーフとなっている。
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今川義元の墓

東海市に今川義元の墓があると以前に聞いたことがあった。 小学校の近くと聞いていたので、大学からの帰りに寄ってみた。 小学校の隣の青少年センターで場所を尋ねると3人の若い職員 が親切に調べてくれた。そして、その小学校ではなく横須賀小の 側ということがわかった。 しかし、行ってみて地図にはあるのだが場所がなかなかわからない。 …
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桶狭間の七ツ塚

桶狭間の戦いの史跡の中で「七ツ塚」には行ったことがなかった。 何回か探したのだが見つけることができなかった。 今日は、買い物のついでに周辺を歩いていてようやく見つけた。 武路公園の近くの住宅地の通路のような細い道の奥に「七ツ塚」はあった。 織田信長が桶狭間山の義元本陣に突入した進路と言われている 釜ケ谷方面には桜花学園…
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桶狭間山

最近、建立された桶狭間山を確定する石碑にようやくたどり着いた。 この石碑は、梶野渡さんが私費で建立されたらしい。 今川方の瀬名陣地跡も初めて写真に撮った。
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桶狭間450年

桶狭間の戦いがあったのは永禄3年(1560年)なので、来年が450周年となる。 地元では、最近盛り上がりを見せ、ロゴマークもつくられた。今川義元と織田信長、 450の3つで構成されている。 今日は、「桶狭間古戦場まつり」があり、郷土史家・梶野渡さんが「合戦前夜 今川 義元の三河進出と織田信長の尾張統一」のテーマで講演をした。…
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桶狭間の戦い(大高城)

 大高(おおだか)城は、永正年間(1504年~1521年)に花井備中守によって築かれたといわれているが、天文・孔治年間(1532年~1558年)の頃は水野忠氏親子が居住。池田頼忠が城主であったときがあった。そのあと土岐氏の家臣の花井備中守が土岐氏の守護代としてこの城にいた。  はじめ今川氏、後に織田氏についたため、今川方に寝返った鳴海…
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桶狭間の戦い(鷲津砦)

 鷲津(わしず)砦は、永禄2年(1559年)織田信長によって築かれた。 大高城が今川方に落ちた後、今川方を牽制するために 丸根砦と共に築 かれた。大高城の北西700メートル。今川方の大高城と鳴海城を結ぶ 交通路を押さえる位置にあった。東西25メートル、南北27メートルであった。 桶狭間の戦いの時、飯尾定宗が立てこもったが、今川方…
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桶狭間の戦い(丸根砦)

 丸根(まるね)砦は、永禄2年(1559年)織田信長によって築かれた。 大高城が今川方に落ちた後、大高城を包囲するように鳴海からのびる 丘陵の先端に築かれた。大高城の東800メートル。今川方の基地で ある沓掛城から大高城への支援路を見下ろす位置にある。 東西36メートル、南北28メートル。周囲は3.6メートルの外堀があった。 …
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桶狭間の戦い(中島砦)

 中島(なかじま)砦は、永禄2年(1559年)織田信長によって築かれた。 今川義元の侵略に備えて築いた3砦(丹下砦、善照寺砦、中島砦)の一つ。東は東海道、北は扇川、西は手越川流れている。当時の規模は長さ144メートル、幅90メートルとも40メートルともいわれている。 現在は、個人の家の庭に石碑が建っているだけで何もない。 『信…
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桶狭間の戦い(善照寺砦)

桶狭間の戦いにおいて、織田信長は早朝に清洲城を出陣し、熱田神宮を経て 善照寺(ぜんしょうじ)砦に3000人を集めたと言われている。善照寺砦は、 現在は砦公園として整備されている。 名古屋に来た38年前にわたしは、この公園の近くに下宿していた。 砦公園から桶狭間の方角を望む。今川方からも善照寺砦はよく見えて いたはずである。…
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桶狭間の戦い(鳴海城址)

 永禄3年(1560年)5月19日、織田信長軍3000人が、10倍 以上の4万5千人を率いる今川義元を破った。そのため、織田軍の奇襲説 が有力だった。また、桶狭間の戦いの位置も代表的な説として次の4つが ある。   1、桶狭間古戦場跡説(豊明市・高徳院)   2、桶狭間古戦場公園説(緑区・幕山のユーストア)…
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司馬さんの桶狭間3

2月3日の「司馬さんの桶狭間」に次のように書いた。 さて最近、司馬遼太郎の『国盗り物語』を再読していて意外なことを発 見した。司馬さんは次のように書いている。 「永禄三年五月十二日、義元は兵力二万五千をひきいて駿府を発した。  十五日池鯉鮒(ちりふ)着  十六日岡崎着  十七日鳴海着  十八日沓掛 」 地理上の間…
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司馬さんの桶狭間2

今日の散歩は、鎌倉街道を通って藤田保健衛生病院(司馬さんの田楽狭間)まで 歩いた。往復で1時間半の行程である。 鎌倉街道を抜けると濁池に出て、そこが藤田保健衛生病院である。 もし、織田信長が山中の迂回コースをとったとすると濁池の北側を 通ったことになる。今の地名でいえば平手を経由して二村山のコー スであろう。司馬さんは、「…
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戦人塚

先日来、「桶狭間の戦い」が気になっていた。今川義元の進路がである。 司馬説でいくと、沓掛城を出て、鎌倉街道を二村山まで来て、田楽ケ窪 (田楽狭間)で宴会を開いたことになっている。鎌倉街道をもう少し行けば 織田側の砦に近づく。景勝二村山の傍を通過したのなら休むのはそこで はないのか、と思うのである。 信長の急襲説では、太子ケ…
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司馬さんの桶狭間

今月は、星亮一さんが赤報隊・相楽総三の取材に長野県に来るのに 同行させてもらうことになっている。そこで、事前学習をしようと本を探 していたのだが、なかなか手に入らなかった。 今日は、大学の書庫を探した。さすがである。2冊も見つかった。それ だけではない、会津藩関係や満州国関係のものも見つけた。これから が楽しみである。 さて…
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大高城

「桶狭間の戦い」の今川方の基地が大高城である。松平元康(後の家康)が兵糧を入れ、信長方の鷲津砦、丸根砦と対峙していた。大高城から鷲津・丸根は目の前で距離にして5~600mのところである。現在の大高城は、住宅に囲まれた中にある。鷲津・丸根砦の周辺も住宅地である。
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中島砦

 桶狭間の戦いのとき、織田方の前線基地であった中島砦は現在は民家の庭の中に石碑があるだけである。善照寺砦から中島砦に移った信長は、川伝いの低地を移動し、今川義元の本陣を急襲して勝利した。義元の本陣が従来の窪地の桶狭間(田楽狭間)ではなく、おけはざま山であったことは地元の郷土史家によって明らかにされている。
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