テーマ:新撰組

永倉新八没後100周年

今日は、元新撰組二番隊永倉新八の命日です。 残念ながら今日は大学に出勤だったので慰霊祭が行われていても 参加できなかった。 板橋か小樽の菩提寺で盛大に行われたことでしょう。
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戊辰役東軍殉難者慰霊祭

今日は、淀の妙教寺において「戊辰役東軍殉難者慰霊祭」に 参加した。京都駅からJR奈良線に乗ろうとしたら架線事故で 電車は動かないと案内が入った。 仕方がないので近鉄・奈良線に乗って、「丹波橋」まで行き、 悟真寺まで歩いた。鳥羽伏見の戦いで戦死した会津藩士の墓 所です。ここには、戊辰之役東軍戦死者之碑が建っている。 榎本武揚の…
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新撰組/永倉新八の命日

1915年の今日、元新撰組2番隊組長・永倉新八が敗血症のため 小樽市の自宅で死去した。99年前のことです。 新撰組の幹部では、3番隊組長・斉藤一とともに長生きしている。 そして、永倉新八が新撰組に関係する墓碑を建立し、回想録を残 してくれたので新撰組の真実が明らかになったことも多いのです。 その意味で、私は永倉新八は新撰組…
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幕末の写真師 田本研造

大阪で一泊しての帰り道に行ったのは三重県の熊野市でした。 熊野古道センター主催の企画展「幕末の写真師 田本研造」を 見に行った。 知らなかったが田本研造は、あの有名な土方歳三の写真を撮 った人で、熊野市出身ということだった。函館に住んでいたので 「箱館戦争」の写真や北海道の開拓地の写真も撮っている。 どちらかというと記録…
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新撰組yearの始まり

今年は、新撰組結成150周年ということになる。 文久3年(1863年)2月8日に試衛館の近藤勇たち一門が浪士組に加わって 江戸を出発した。 3月12日、会津藩預かりとなり「壬生浪士組」と名乗る。その後、8月21日に 新たに隊名を新撰組と名乗る。 だから、これから7年間は新撰組関連のイベントが各地でさまざまなかたちで 行われる…
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新撰組・如来堂の戦い

土津神社とともに行きたかった場所があった。 会津若松市郊外にある如来堂である。 上杉景勝が会津若松城(鶴ケ城)より規模の大きい城を建設しようと した場所にある。 山口次郎は、斎藤一のことである。激戦となり、一時は斉藤一も戦死 したと思われていた。
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新撰組・大坂史跡④(萬福寺、口縄坂)

生国魂神社を過ぎて、松屋町筋を南下した「下寺町1南」交差点の手前に、 大坂における新撰組屯所として有名な萬福寺がある。 さらに南下したところに口縄坂の石碑がある。 司馬遼太郎の 『燃えよ剣』に鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸に帰る数日を 土方歳三が愛人と過ごす場面が出てくる。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー…
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新撰組・大坂史跡②(しじみ橋)

新撰組2番隊長・永倉新八が語った『新撰組顚末記』の中に大坂・鍋島河岸で 角力取りとトラブリ、芹沢鴨が斬る事件が書かれている。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー なおも足をはやめて蜆橋へさしかかるとまたもひとりの角力取がやってきて前 とおなじようなまねをする。そこでこんどは八…
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新撰組・大坂史跡①(八軒屋浜)

『摂津名所図会』竹原信繁による八軒屋船着き場と葛飾北斎の「摂州・天満橋」の絵。 司馬遼太郎『竜馬がゆく』に薩長同盟締結のために上洛する坂本竜馬が 八軒屋浜から三十石船に乗りこむシーンがある。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 天満八軒屋は、伏見へのぼる淀川船の大坂駅になっている。 天…
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台風、危機一髪!(新撰組・大坂史跡③)

台風が予想外に進度を速め、午後3時頃に東海地方に接近しそうな予報だった ので、京都に行く予定だったのを大阪の新選組史跡の残りをを見て早めに帰る ことにした。 今朝、起きたら雨も降ってなかったのでラッキーと思ったのだが、最初の石碑が わからなくて苦労した。 「大利鼎吉遭難の地碑」は、元治2年(1865年)将軍家茂暗殺を企む土…
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樺戸/囚人墓地

2年前にも訪れた月形樺戸博物館(旧樺戸集治監本庁舎)を訪れたのは 前回は立ち寄らなかった囚人墓地を見たかったからである。 『自由民権』色川大吉(岩波新書)の6ページに次の記述がある。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 1974年10月26日、月形町役場に170余名の市民、教員、研究者らがつ …
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龍源寺(近藤勇の墓)

近藤勇の墓はいくつかある。板橋と会津若松、そして調布の龍源寺が 有名である。近藤の生家・宮川家は上石原村の豪農だった。龍源寺か ら近いところに石碑が建っている。 龍源寺は雰囲気のある寺である。門前に近藤の胸像と顕彰碑がある。
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井上源三郎資料館

JR日野駅の近くにある宝泉寺に井上源三郎の墓がある。 井上源三郎は、新撰組六番隊組長であり、試衛館時代からの 仲間であるが新撰組の中ではややマイナーな存在である。 年長者で好々爺的な存在と思われている。 井上源三郎資料館には、天然理心流の免許皆伝を得た達人 だったという資料があった。 井上源三郎を主人公にした秋山香乃…
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土方歳三資料館

念願だった土方歳三資料館をやっと訪れることができた。 土方歳三資料館は、第1・第3日曜日の午後しか開館していない。 日野には何回か訪れていて、歳三の墓がある石田寺には5回ほど 行っているのだが資料館が開館していない日ばかりで外から見る だけだった。 資料館は子孫の方が個人的に開館しているものだから、館内の展 示はあっ…
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追悼!左右田一平さん

左右田一平さん(そうだ・いっぺい)が10日、S状結腸がんで亡くなった。 左右田さんは、私にとっては「燃えよ剣」の斉藤一である。 土方歳三の栗塚旭、沖田総司の島田順司とともに斉藤一の左右田一平 に夢中になったことがあった。 今も新撰組ファンであるのは、この3人がいたからかもしれない。 左右田一平さん、81歳。
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永倉新八の命日

1915年(大正4年)1月5日に永倉新八は永眠した。 永倉新八は、新撰組二番隊組長として幕末の数年間を 京都に闊歩した。有名な「池田屋事件」においても近藤 勇ら数人で修羅場をくぐっている。 鳥羽・伏見の戦いの後、江戸に戻ってきた新撰組は、甲 陽鎮撫隊となって甲府に出陣した。甲府で敗れた後に近 藤勇と袂を分かった永倉新八は靖共…
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長倉家の墓参

今回の岡山行きの目的は、永倉新八の実家である長倉家の墓 参である。 その墓石の前に永倉新八のことを書いた碑がある。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 武士の節を尽して厭(あく)までも貫く竹乃心一筋       新選組副長助勤 永倉新八源載之 この和歌は文久三年二月八日、若き新八が報国の志に…
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京都紀行4(西本願寺周辺)

坂本龍馬が暗殺された数日後、近藤勇の休憩所に招かれた元新撰組 参謀・伊東甲子太郎は帰路、待ち伏せた新撰組隊士に襲われ、本光寺 まで逃れたが絶命した。 新撰組は、御陵衛士をおびきだすために伊東甲子太郎の亡骸を七条油 小路に運んだ。この油小路事件で藤堂平助以下3名が殺される。 油小路通を北に上がると天満屋騒動(海援隊士…
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京都紀行3(京都駅西側周辺)

京都駅を出て左(西)側に歩いてビッグカメラを通りすぎると明王院不動堂 がある。新撰組不動村屯所跡である。そこへ行く途中にハトヤ瑞鳳閣があ り、新撰組最後の洛中屋敷跡という石碑が建っている。 不動堂に戻って、堀川通を渡るとリーガロイヤルホテル前に新撰組不動堂 村石碑(近藤勇の歌碑)がある。 堀川通沿いを北へ西本願…
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永倉新八の命日

今日は、新撰組二番隊長・永倉新八の命日である。 小樽・札幌・板橋にあたる北の方角を向いて手を合わせた。 永倉新八の墓としては東京板橋にあるものである。 他は杉村義衛となってからのものであろう。 しかし、同一人物である。 1915年1月5日に亡くなっているから4年後は没後100年 ということになる。それまでに研究をすすめて…
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永倉新八の墓

永倉新八の墓は3ヶ所ある。 札幌の里塚墓地の杉村家の墓には杉村義衛と刻まれている。 二つ目は、東京・板橋にある。 三つ目は、岡山市にある長倉家の墓であるが、私はまだ訪れたことがない。
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永倉新八を訪ねてNo2

明治15年、永倉新八は樺戸集治監に剣道師範として勤めた。 集治監とは監獄のことである。『密偵』秋山香乃(幻冬舎)に樺戸 集治監が出てきて、永倉新八も登場する。 月形樺戸博物館は、「監獄資料館」で展示を見てまわるだけで暗い 気分になってしまう。その一角に永倉関係の資料が展示されている。 永倉新八が晩年を過ごした小樽には何…
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永倉新八を訪ねて

新撰組・永倉新八の史跡めぐりは松前城から始まった。 松前藩の居城である福山城(松前城)は、箱舘戦争で 土方歳三率いる攻撃隊によって攻略される。 松前城の近くにある松前家墓地に永倉新八の大叔母にあたる 十二世藩主・資広の側室文子(勘子)の墓がある。おそらく、明治 になってから杉村義衛と改名した永倉新八も立ったであろう場所…
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函館の土方歳三

土方歳三が最後まで守った二股口古戦場へ行ったのだが、あ いにくの雨に降られたうえに目的の土塁を発見できなかった。 土方歳三といえば何と言っても「一本木関門」である。 公園の中にあって落ち着いた雰囲気のある場所である。 函館には土方歳三記念館がある。 そして、五稜郭タワーに土方像がある。 五稜郭内に7月に完…
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疲れたが充実した5日間

画像を取り込んだパソコンがまだ帰って来ないので函館・札幌・小樽の 永倉新八史跡めぐりの報告は明日以降になる。 今日は、疲れて午前中はうつらうつらと眠っていた。4泊5日はやはりジ ワジワと効いてくるようである。 函館周辺の史跡めぐりは娘と一緒だった。娘も新撰組ファンなので石碑 や墓を見てまわるだけなのに嫌な顔もせず同行してくれた…
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試衛館(近藤勇の道場)跡

市ヶ谷甲良町にあったといわれている近藤勇が道場主だった 試衛館跡を訪ねた。都営大江戸線「牛込柳町」から徒歩5分 のところにあった。柳町病院の裏である。 永倉新八は、『新撰組顛末記』で「江戸は小石川小日向柳町 坂上に道場を開く近藤勇」と書いている。 ただ、説明柱があるとは思っていなかったのでびっくりした。 中学生らしい3人…
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会津紀行③(阿弥陀寺・斉藤一の墓)

阿弥陀寺の境内にある御三階は、鶴ケ城本丸にあった 建物で、外観は3層だが内部は4階になっているらしい。 藩主たちが密議をする場所でもあった。 この阿弥陀寺には、新撰組・斉藤一の墓もある。
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会津紀行①(母成峠の戦い)

会津戊辰戦争の激戦地である母成峠に板垣退助率いる3000人の 新政府軍が迫った。迎え撃つ同盟軍は、大鳥圭介率いる旧幕兵・伝 習隊を中心とする800人であった。 圧倒的な兵力の新政府軍に対して、手薄な国境防衛軍はなすすべ もなく敗走する。
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近藤勇の首塚2

法蔵寺の境内から山腹を少し歩くと近藤勇の首塚が見えてくる。 新選組ファンが立てたのか誠の旗がある。 近藤勇の胸像は昭和33年に首塚が発見された後につくられた。 胸像と石碑は、江戸の方角に向いている。 その前には松平家の御霊廟がある。 昭和33年に土中より掘り出した石碑。 「貫天院殿純義誠忠大居士 霊位 近藤勇 3…
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近藤勇の首塚

岡崎市の法蔵寺に近藤勇の首塚があることは知っていた。 今日、初めてその首塚を訪れた。 法蔵寺は由緒によると、徳川家康が竹千代時代に学んだ寺 ということである。山腹には松平家御霊廟があり、家康の父 である松平広忠も菩提されている。また、三方原の戦いで戦 死した家臣の墳墓もある。 近藤勇が板橋で刑死したあと、親族が死骸を…
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