『信長公記』に書かれた丹羽長秀

今日は、一日中『信長公記(現代語訳)』の中に出てくる丹羽長秀の項目をパソコンに打ち込んでいました。パソコンに何度か「休憩しましょう」と言われてしまいました。【首巻】信長が入京する以前の記録の中の《5 平景清所持の名刀あざ丸》で斎藤道三が大柿城を攻めているときに奇怪なことがあったと書いている。 
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去る九月二十二日の大合戦のおり、千秋季光は、もと平景清の所持していた名刀あざ丸を差して討ち死にした。この刀を美濃方の蔭山一景が手に入れて差し、このたびの城攻めに参陣した。西美濃大柿の隣、牛屋山大日寺の寺内に陣を構え、床几に腰を掛けていたところ、城内からはなはだ強い弓で、矢尻の先を丸くした矢を空に向けて、寄せ手の方へ射かけてきた。その矢が、蔭山一景の左の眼に当たった。それをひきぬいてたところ、また二の矢に右の眼を射つぶされた。 
このあざ丸はめぐりめぐって丹羽長秀の所有となったが、長秀はしきりに眼病をわずらうようになった。「この刀を所持する人は必ず眼病になる、という噂を聞きました。熱田神宮へ奉納なさったほうが良いですよ」と人々が忠告したので、熱田神宮へ奉納したところ、すぐに眼も良くなったそうである。

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丹羽長秀が《名刀あざ丸》を手に入れた時期がはっきりしないのですが『信長公記』の中で初めて丹羽長秀のことが書かれた記事です。ちなみに丹羽長秀の名は80回記されています。丹羽長秀と言えば柴田勝家とともに織田家中の実力者と思っていました。木下藤吉郎が丹羽と柴田にあやかって羽柴としたことは有名なことです。しかし、今回、『信長公記』の記述を見るかぎり、丹羽長秀は武将としてはツートップではないのではないかと感じました。信長には実務者として信頼されているようです。
丹羽長秀は、豊臣秀吉の天下取りの功績から越前120万石の大大名となります。ところが長秀が亡くなった後は秀吉から領国を削られ、十分の一以下になり、関ヶ原の戦いで領地を没収されます。秀忠の時代に復活し、二本松藩10万石で幕末を迎えます。幕末の二本松藩は《義》を貫いた藩です。その意味で好きな藩なのです。

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